インタビュー特集

「演劇で、世界は変わる」京都学生演劇祭を立ち上げて10年、仕掛け人が話す、演劇の可能性とは

京都で演劇に情熱を傾ける学生なら知らない者はいない、京都学生演劇祭。2010年度に「今、京都で最もおもしろい舞台をつくる学生劇団はどこか?」という問いかけから京都学生演劇祭は始まり、2022年は11の団体が参加、学生たちが情熱を見せつけた。
この演劇祭の仕掛け人は沢大洋(さわ・たいよう)さん、39歳。彼もまた、演劇人である。
演劇が好きで、学生演劇を盛り上げたい——。
そのシンプルで熱い想いが、彼の10年以上、学生演劇祭を続ける原動力だ。
今回は彼の生い立ちを振り返りつつ、情熱に迫ろう。

■小学4年で演劇に魅惑され、俳優を目指す

1983年生まれの沢さんは、島根半島北側の日本海にある隠岐諸島で育った。隠岐郡全体で人口は約1万9千人、小学1年まで「島前(どうぜん)」で、小学2年以降は「島後(どうご)」と呼ばれる島で、沢さんは育った。兄は10歳上で、ほぼ一人っ子のようにのびのびと育った。自分の父親が教頭を務めていた小学校は、児童数は全校で70人程度の規模だった。
沢さんの父は立命館大学を卒業して、やはり人形劇や演劇に影響を受けた人物だった。父の発案で、小学校4年生のとき、学芸会に「ごんぎつね」を上演することになる。自分は主人公のきつねの役をもらった。一生懸命に練習するが、当日40度近い熱が出てしまう。結局、高熱を押して舞台に立った。400人の観衆を前に、スポットライトを浴びる快感を覚えた。沢少年が演劇の熱を帯びた、始まりの日だ。

小学6年生のとき、卒業文集に「将来の夢は俳優」と書いた。中学、高校では運動部でソフトテニスに汗をかきつつ、大学に入ったら演劇部に入ると決めていた。一浪して立命館大学の理工学部に進学。真っ先に演劇部の門を叩いた。19歳、立命館大学のびわこ・くさつキャンパス(BKC)、「月光斜TeamBKC」で活動を始めた。

■演劇漬けの大学生活、卒論代わりに提出したのは「芝居」

最初の印象は「立命館で有名な月光斜といってもたいしたことねえな、俺が変えてやる」。
鼻っ柱は強かったが、所属して最初の公演でいきなりのオーディション落ち。悔しさのあまり、文字通り演劇漬けの大学生活が始まった。ほぼ毎日大学に行ってはいたがすべて稽古のため、授業には出席しなかった。1年目で取れたのはたったの6単位だった。

「生意気でしたね。周囲が見えていなかった」。沢さんは言葉少なに、学生時代の自分をそう語る。
京都を代表する有名な演劇人の先輩たちに「なんでテレビに出ないんですか?」と無邪気に聞き、後輩たちにはダメ出しをした。
「今の自分だったら絶対に言わないことを言っていたなと。配慮が足りない、学生でした」。

大学4年半ばのとき、最愛の父が60歳で亡くなった。小学校教員を定年退職した2カ月後だった。
父は、沢さんの公演のたび、観劇のため京都に来てくれていた。「『やることは、やらないと』、と父も言っていたので」1年間演劇を休んで、単位取得に集中した。
卒業論文の代わりに、ウィーンの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンによるエントロピー増大の法則を主題に、一人芝居をした。教授は沢さんの演劇の才能を絶賛し、及第をくれた。そうして、25歳で立命館大学を卒業する。

■故郷の美しい空と海に負けない芝居を

「演劇で自分から発露するなにかで、世界は変わる。そう信じていたんです」と沢さんは当時の自分を振り返る。
一緒に演劇に情熱を傾けた仲間たちが、大学卒業と同時に就職していく。仲間たちが「演劇を通り過ぎていける」ことに違和感があった。
卒業後は、京都ロマンポップ主宰の向坂達矢さんや劇作家のよりふじゆきさんと出会い、「東京ではない、京都の演劇をやろう!」と気炎を上げた。
居酒屋でアルバイト、朝まで働いて、夕方から稽古。そんな暮らしのなかで、役者として芽が出るのを待ち続けた。

「プロデューサーって、おもしろいかもしれない」、そんな予感がしたのは、自分の父親を題材にした演劇を企画・上演したときだ。
沢さんはメンバーを募り、実現に漕ぎ着けた。父親役は、他でもない自分が演じた。

故郷である島根の島前での公演を実現する。
「舞台上で父が生きている感覚があったんです。演じるうちに父の人生が少しわかった気がしました。島前での公演が終わった翌朝の美しい空と海は忘れられません。隠岐のきれいな景色に負けないような芝居をしていこうと決めました」。

■京都から世界へ— 学生団体がつながれる企画を目指して

役者よりもプロデューサーに軸足を移しつつあった沢さんは、26歳のときに「京都で、個人ではなく団体同士がつながれる企画を目指して」45分形式の演劇祭を発案する。これが京都学生演劇祭の始まりだ。

27歳でNPO劇研に入り、演劇祭の母体を形作る。
29歳のときに、当時まだ無名だった吉岡里帆さんと舞台をつくったのはひとつの挑戦だった。
今や、京都学生演劇祭といえば京都発祥ながら8都市に広がった。札幌、仙台、東京、名古屋、奈良、松山、福岡。沢さんは各地に飛び、立ち上げのサポートを行っている。
「日本全国に学生演劇祭を広げて、全国的なお祭りにしたいですね」。
沢さんの夢は広がる。
「東アジア文化都市事業の枠組みで学生たちと韓国へ渡り、作品を上演したことがあるんです。言葉や文化が異なる人たちの前で演劇をすることで、学生たちの作品の強度が上がるのを感じました」。
今後の学生たちの演劇の可能性を広げるためにも、世界各地の学生たちと演劇でつながっていきたいというビジョンがある。

■演劇で、成長する。学生演劇はもっとおもしろくなる。

さまざまな挑戦は道半ばの、今。「演劇で世界は変わる、その信念は変わりません。演劇にはすごくいろんな可能性があると思っています」と沢さん。
沢さんがうれしい瞬間は、京都学生演劇祭で、1年目に大敗を喫した役者が、翌年優れた演技を見せるときだ。
その悔しさをぶつけて、京都学生演劇祭で成長が見られるのがうれしい。
「演劇祭を通じて、まったく知らない者同士が接して生まれる衝撃と感動がある。毎年、手ごたえを感じていますね」。

京都学生演劇祭が始まり、12年目も過ぎた今、かつて学生だった役者や劇作家たちは20代後半から30代に差し掛かっている。数年前の演劇祭で輝いた学生たちが、今や名のある賞を受賞する。そんな活躍を散見するようになってきた。
「自分はプロデューサーとしては、ずっと準備段階が続いている気もするし、着実にステップを上がっているような気もする。ただ、確実にわかっているのは、学生演劇はもっとおもしろくなると思うのです」。

小学生のときにステージに立ち、演劇に魅了された沢さん。年齢を重ねて、役者からプロデューサーに軸足を移し、見える景色はずいぶん変わった。
しかし沢さんの演劇に傾ける情熱は変わらず、青く燃え続けている。


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