インタビュー特集

劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語るvol.5 「ラックシステム」旗揚げ 新境地を開いた大阪弁の芝居から、歌舞伎、狂言の世界へ

劇作家、演出家として数多くの作品を手がけ、故・中島らもさん、松尾貴史さんらと設立した劇団の流れを汲む「リリパットアーミーII」の座長を務めるわかぎゑふさん。生まれ育った大阪を拠点に演劇界で幅広く活躍し、歌舞伎や狂言など日本の伝統芸能とも積極的に関わってきた。「芸術や文化で人を楽しませること。今を生きる人間にとって、それは時に、その日の食べ物よりも必要な瞬間がある。そのことを知ったから、芝居を辞めずに続けてきた。私の根源です」。わかぎゑふさんの演劇にかける情熱に迫る、単独特別インタビューを連載で紹介する。(7回連載の5回目)
【前回の記事→劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.4  『リリパットアーミー』のブレイク、小劇場ブームの終焉を経て、「大阪弁の芝居」という新たな一歩】

──小劇場ブームの後も、わかぎさんは『リリパットアーミー』を続けながら、1994年にご自身の演劇ユニット『ラックシステム』の活動を始められます。

『ラックシステム』としての一番初めは、「お花見」というタイトルの芝居を作りました。キムラみどりことか、まっさんとかカッパくんとかが出演して、全部をエチュード(即興劇)でやったんです。やっている私たちはほんまに面白かったけれど、見に来たお客さんは全然面白くなかったんじゃないかと思います(笑)。
自分たちだけが面白いという、稽古場のノリそのもの。芝居の途中から舞台の上でビールを飲みだして、最後の方はみんなで酔っ払って…。らもさんも見に来てくれたんですが、終演後に「お前、二度とやるな」と言われました。
でも、「『お花見』の”お”が付いているのが、なんか関西っぽいな」と思い、その後も『お正月』『お見合い』と、”お”が付いているタイトルで脚本を書いていきました。

ラックシステム『お正月』(2000年)

『お見合い』は1997年の作品なんですが、単純に着物が着たくて作った芝居です。大阪弁の芝居で、日本家屋の中で役者が着物を着て演じる芝居が作りたかったんです。公演の時に十代目坂東三津五郎さんも見に来てくれたんですが、幕が開いたら客席の一番前に芸者さんと一緒に座っていて。「今から着物を着て芝居するのに、やりづらいなぁ」と思ったことを覚えています。
当時は30代の役者が着物を着て、それに応じた所作をして、大阪弁で演じるという芝居がなかった。この趣向が面白かったようで、好評だったんです。それで「『ラックシステム』は大阪弁の芝居しかやらんとこう」と決めて、タイトルに”お”が付く『おシリーズ』として公演するようになりました。
その後、2000年に『お祝い』という芝居を書きました。その時に、松竹のとあるプロデューサーの方が「わかぎさんは、商業演劇にご興味はありませんか?」と言って訪ねて来られた。私が「商業演劇って何ですか?」と聞くと、いわゆる松竹演劇とかの舞台のことだと言われた。「私、元々そっちが好きで、歌舞伎とかも子どもの頃からよく見に行ってました」と答えると、「そしたら、松竹新喜劇の演出をしていただけないでしょうか」と頼まれたんです。それがご縁で、商業演劇をやるようになりました。

ラックシステム『お祝い』

──2000年代に入り、大阪の演劇事情はさらに変化していきます。2003年には大阪の小劇場演劇の拠点だった「扇町ミュージアムスクエア(OMS)」が、翌年の2004年には近鉄劇場・近鉄小劇場が閉館しました。わかぎさんが商業演劇に関わり出される時期と重なります。

近鉄小劇場がなくなった次の年から、私は入れ替わるように商業演劇をやり出しました。2005年の松竹新喜劇の『影にいる男』の演出が、手がけた最初です。舞台の世界に生きる人たちの人情劇でした。
この時の公演チラシに、私の顔写真が載っているのを三津五郎さんに見られて、「チラシに演出家の名前が載るなんて」とひやかされたりしました。実はそれ以前から、三津五郎さんとは懇意にしていただいていて、「歌舞伎の脚本を書け」としつこく言われていたんですが、逃げていたんですよ。

2006年4月に、東京のサンシャイン劇場で三津五郎さんが出演していた『獅子を飼うー利休と秀吉ー』という作品を見に行って、終わってから楽屋に挨拶に伺ったんです。そこで三津五郎さんに「今年の夏は、何やってんの?」と聞かれた。「襲名で、のりちゃん(十八代目中村勘三郎さんの愛称)が今年の夏は歌舞伎座にいないのよ。だから、ふきこできるよな」と、いきなり言われたんです。
驚くほど突然だったんですが、この一言で、その年の8月、歌舞伎座の舞台で私が演出を務めることになったんです。三津五郎さんが「(落語の)『たのきゅう』をやりたい」と言い出して、私が台本を書くことになりました。ただ、三津五郎さんのスケジュールが忙しくて、打ち合わせもままならない。今でもこの時の公演チラシを手元に置いていますが「八月納涼歌舞伎第二部たのきゅう、作・演出 わかぎえふ、主演 坂東三津五郎」としか書いてない(笑)。公演3カ月前の時点で、本当にそれだけしか決まってなかったんですよ。

──初めて関わられた歌舞伎の大舞台の裏側では、ハラハラするような展開があったんですね。

その後も、歌舞伎や松竹新喜劇の演出を手がけました。そのうちに「古典芸能の人」と思われ出したのか、ある日、狂言師の二世茂山千之丞さんから電話がかかってきて、お能のイベントの司会を頼まれたんです。大阪の大槻能楽堂を会場に、お能の魅力を知ってもらうというイベントでした。私が司会で、千之丞先生が狂言を紹介するというもので、結構な回数を重ねました。
お仕事をご一緒させていただく中で、千之丞先生に「君は歌舞伎が書けたんやから、狂言も書ける」と言われ、狂言の脚本製作を頼まれたんです。最初は「私、狂言の言葉遣いとか分かりませんよ」と答えていたんですが、「そんなんは(茂山)あきらが直すから、原型の本を書いてくれたらいいから」と押し切られ、お引き受けすることになりました。その次の日に千之丞先生から電話がかかってきて、「昨日言い忘れたけど、君、それに出るから」と言われ、「騙された!」と思いましたけど、時すでに遅し(笑)。

──色々な方々とのご縁が重なり、歌舞伎、狂言とジャンルを超えて挑戦されたことで、活躍の場を広げられたのですね。

沖縄で毎年夏に開催されていた「国際児童青少年演劇フェスティバルおきなわ(キジムナーフェスタ)」という、子どものための世界的な演劇祭があったんですよ。そこで千之丞先生の一人芝居と新作狂言をやるということで、その新作狂言の脚本を私が書いて、舞台にも演者として出るということになりました。この時は、千之丞先生と十三世茂山千五郎(正義)さんと私の3人で沖縄に行くことになり、5回ほど沖縄で狂言をやりまして、その後、大阪でも再演しました。
他にも「HANAGATA狂言(花形狂言会)」という大蔵流の若手狂言師5人によるグループがあるんですが、ある時、東京で私が書いた新作狂言をやることになったから、出てほしいと頼まれたんです。私は別の芝居と日程が重なっていたんですが、メンバーの茂山茂に「お母ちゃん(※わかぎさんの愛称)、何時からやったら来れる?」と頼み込まれて…。それで、銀座の博品館劇場で舞台に立って、出番が終わるとすぐに渋谷のPARCO劇場に衣装のまま飛んで行って、そのまま狂言に出たこともありました。そういう面でも、相当、型破りだったかもしれませんね。(続く)


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