インタビュー特集

劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.4 『リリパットアーミー』のブレイク、小劇場ブームの終焉を経て、「大阪弁の芝居」という新たな一歩

劇作家、演出家として数多くの作品を手がけ、故・中島らもさん、松尾貴史さんらと設立した劇団の流れを汲む「リリパットアーミーⅡ」の座長を務めるわかぎゑふさん。生まれ育った大阪を拠点に演劇界で幅広く活躍し、歌舞伎や狂言など日本の伝統芸能とも積極的に関わってきた。「芸術や文化で人を楽しませること。今を生きる人間にとって、それは時に、その日の食べ物よりも必要な瞬間がある。そのことを知ったから、芝居を辞めずに続けてきた。私の根源です」。わかぎゑふさんの演劇にかける情熱に迫る、単独特別インタビューを連載で紹介する。(7回連載の4回目)
【前回の記事→劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.3 帰ってきた大阪、中島らもとの出会い…そして『笑殺軍団リリパットアーミー』旗揚げへ】

リリパット・アーミー 第27回公演『こどもの一生』(1995年)

──東京から大阪に戻られたわかぎさん。26歳の時に、中島らもさんたちとともに旗揚げされた『笑殺軍団リリパットアーミー』は、小劇場ブームの波に乗って大人気となります。ご自身を取り巻く状況も、大きく変わられたのではないですか?

一言で言えば、時代ですよね。らもさんのやることなすこと全てがウケて、大学生が「おしゃれなこと」として劇場に『リリパットアーミー』を観に来る、みたいな感覚だったと思います。そんな時代だったんですよ。
いわゆるコントというものが、まだあまりなかった。だから、「おしゃれやし、おもしろいし」というので、劇場に通う若者たちがいっぱいいました。特に『リリパットアーミー』は、らもさんの「映画館より高い入場料にはしたくない」という考えでやっていたので、チケットの値段も安かったんです。
小劇場ブームが広がる中で、漫才師にもコントをやりだす若手が出てきた。それぞれが何かに特化して、舞台をさらに面白くしていこうと試みていました。そういう流れがあって、演劇の世界も分布図が変化していきました。

──小劇場ブームから、演劇の裾野が広がる中で、色々な変化が起きていたのですね。

『リリパットアーミー』は人気だったんですが、次第にらもさんは作家活動に軸足を移していったんです。小説の執筆が中心になるにつれて、らもさんは芝居を書く気がなくなっていった。私が代わりに脚本を書いたりしましたが、そのうちに小劇場ブームが去り、劇場も次々とつぶれていきました。「あんなにたくさんいた大学生たちは、一体どこに消えた?」という感じでしたね。
公演のためにはまず、劇場を探さなくてはならない。劇団員にギャラを払える状況でもなくなって、『リリパットアーミー』の劇団員もどんどん辞めていきました。そんな中でも、コング桑田とか、当時はまだ若かった上田宏とかは、ギャラを払わなくても『リリパットアーミー』に残ってくれたんです。そんな当時からのメンバーには、よう続けて残ってくれたなと、今もすごく感謝しています。

リリパット・アーミー『乙女回廊』(2001年)

──1990年代に小劇場ブームが去って、『リリパットアーミー』や演劇を取り巻く状況が大きく変化したのですね。逆境とも言える中で、わかぎさんは94年に新しい演劇ユニット『ラックシステム』を作って活動を始められます。

その当時、大阪弁で芝居をやっている劇団なんてほとんどなかったんですよ。松竹新喜劇くらいしかなかったと思います。「そう言えば、なんで誰も大阪弁で芝居をしないんやろ」とつらつらと考えていたのですが、「大阪で、大阪弁の芝居をやったら、人が入るかもしれんな」と思いつきました。
でも私たちの時代は、一つの劇団に入ったら一生その劇団に在籍するか、そこを辞めて他の劇団に入るか。そのどちらかで、劇団の掛け持ちなんて考えもしなかった。そんな状況で、『リリパットアーミー』をやりながら『ラックシステム』も始めることになりました。きっかけは、知り合いのドラマーにかけられた言葉でした。

当時私が暮らしていたマンションには、いろんな人がいたんです。俳優で歌手の山内圭哉の夫婦とか、小市慢太郎、佐々木蔵之介、橋本じゅんといった俳優たちが、私も今の夫と同棲していて、『リリパットアーミー』の劇団員も住んでいました。
そのマンションに、以前に芝居に出演してくれたJimi橋詰というドラマーがちょくちょく遊びに来ていたんです。Jimiは東京で活動していたんですが、2週間に1回のペースで関西にドラムを教えに通っていて、その度にマンションに遊びに来ては一緒にお酒を飲んだりしていました。

Jimiと飲んでる時に、私が「大阪弁の芝居をやったら、観客入るかな?」と聞いたら、「それならもうひとつ、別の劇団作ったらええやん」と言われたんです。Jimiのその言葉を聞くまで、そんなことは全く考えていなかったから、私は「え、なんて? どういうこと?」という感じで、すごく驚きました。
だけどJimiは「なんであかんの? 僕、4つぐらいバンド掛け持ちでやってるで」と、さも当然という感じで。「なんであかんの? ふっこちゃんが自分で好きなことする劇団作ったらええやん」と提案してくれた。そのJimiの言葉を聞いて、演劇と音楽は近い世界でも、全然考え方が違うところがあるんやなと思いました。目から鱗どころじゃない、魚が1匹落ちたような感じでしたね。
私が『リリパットアーミー』に居ながら別の劇団を作る。そんなことが出来るのか。不安はありながらも、とにかく、まずはやってみようと思って始めたのが、演劇ユニット『ラックシステム』でした。(続く)


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