インタビュー特集

劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.3 帰ってきた大阪、中島らもとの出会い。そして『笑殺軍団リリパットアーミー』旗揚げへ

劇作家、演出家として数多くの作品を手がけ、故・中島らもさん、松尾貴史さんらと設立した劇団の流れを汲む「リリパットアーミーⅡ」の座長を務めるわかぎゑふさん。生まれ育った大阪を拠点に演劇界で幅広く活躍し、歌舞伎や狂言など日本の伝統芸能とも積極的に関わってきた。「芸術や文化で人を楽しませること。今を生きる人間にとって、それは時に、その日の食べ物よりも必要な瞬間がある。そのことを知ったから、芝居を辞めずに続けてきた。私の根源です」。わかぎゑふさんの演劇にかける情熱に迫る、単独特別インタビューを連載で紹介する。(7回連載の3回目)
【前回の記事→劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.2 上京し劇団研究生となるも「プロは無理…」模索した演劇の道は“富士山の樹海コース”】

──20歳で上京したわかぎさんは、劇団の研究生を経て、自身の劇団「海猫亭」を旗揚げされました。数年間、東京で活動された後、再び大阪に戻られたのですよね。

東京で劇団をやっていた頃は、男の子と一緒に住んでいたんです。その子に振られことが、ひとつのきっかけでした。「私、なんで東京に居るのかな?」と思い始めた時に、服飾デザイナーを志して一緒に上京した親友に、「私、大阪帰るねん」と打ち明けられたんです。それを聞いて「私、東京で頑張る必要がどれくらいあるんやろ」という気持ちが大きくなり、大阪に帰ることにしました。
大阪に戻ってみると、高校の先輩で『エイプリルハウス』という劇団で一緒だった若木元子さんが結婚されていました。お相手は、私も高校時代からよく知る稲葉さんという方。久しぶりに私が大阪に戻ってきたということで、稲葉家でホームパーティーを開いてもらうことになったんです。そこに、らもさんも来ていました。

元々、稲葉さんと中島らもさんが同級生で、昔から仲が良かった。そのつながりがあって、私も高校生の時から、らもさんを知っていたのですが、ちゃんとお話しするようになったのは、この時からです。
私が「友達と一緒に、こっちでも劇団を作る約束してるねん」という話をしたら、らもさんが「俺もやる」と言い出したんです。「らもさん、芝居とか出来るの?」と聞くと、「本が書けるやん」と。
らもさんの話を詳しく聞いてみたら、以前どこかの劇団に頼まれて脚本を提供したものの、実際の舞台を見に行ったら全く面白くなかったらしく、「自分でやった方がマシやと思って、悶々としてんねん」と言われました。それで「俺が脚本を作るから、一緒に劇団芝居しようや」と誘われ、『笑殺軍団リリパットアーミー』を始めることになったんです。私は当時26歳で「これであかんかったら芝居をやめよう」と思って参加しました。「『リリパットアーミー』があかんかったら、絵を描いて生きていこう」という気持ちでした。

リリパット・アーミー 第28回公演『天外綺譚』(1996年)

──『リリパットアーミー』誕生の裏側に、そんなエピソードがあったのですね。旗揚げ当時の1980年代は、いわゆる「第三世代」の劇作家や演出家が登場し、小劇場ブームと言われた時期にあたります。

東京では、野田秀樹さんや渡辺えりさんたちが活躍していて、まさに小劇場ブームの真っ只中でした。でも私は心折れて大阪に帰ってきていました。「これであかんかったら、演劇やめるか」と思い詰めて『リリパットアーミー』を旗揚げしたら、そのタイミングで大阪にも小劇場ブームの波が、ちょうど来たわけです。本当にビッグウェーブで、らもさんが脚本を作ってコントをやっていただけなのに、驚くほどたくさんの人が劇場に来て、「何これ?!」と大好評でした。

関西では当時、京都大学の学生演劇発祥の『劇団そとばこまち』、大阪芸術大学の学生有志が結成した『南河内万歳一座』や『劇団☆新感線』といった学生演劇の劇団が次々と旗揚げされていました。
私たち『リリパットアーミー』は学生劇団ではないんですが、大阪にやって来た小劇場ブームのビッグウェーブにぴょんと乗ったんです。そうしたら、その波がザーッと続いていった。『リリパットアーミー』で生まれて初めて、客席が満席の舞台に役者として立ちました。それはすごかったですよ。友達にチケットを売らなくても、公演の度に完売していましたからね。

わかぎゑふさん(左)と、中島らもさん(右)

──1980年代の小劇場ブームでは、関西でも個性派の劇団が続々と登場しました。若い世代の人たちも観客として頻繁に小劇場に足を運ぶ時代だったんですね。

お芝居をやって、初めてギャラをもらったのも『リリパットアーミー』でした。らもさんがギャラを手渡してくれた時に、私が「ギャラ?」と聞き返したら、「お前、何しに芝居してんねん。友達にはな、絶対にギャラ払えよ。そうでないと友達なくすぞ」と言われて。私にとって、その言葉は衝撃的でした。「あ、私はらもさんの友達なんや」と思ったんです。この教えは、今でも『リリパットアーミー』の根幹の部分にありますね。

お金を貯めて20歳で上京して、劇団に入って稽古場の床を拭きながら「無理やな、役者になんて一生なれへんな」と思って毎日過ごしていたんです。それが大阪に戻ってきて、らもさんと一緒に『リリパットアーミー』を旗揚げしたら、小劇場ブームの波がやって来ました。振り返ると、すごい経験というか、運みたいなものがあったのかもしれません。(続く)


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