インタビュー特集

劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.2 上京し劇団研究生となるも「プロは無理…」模索した演劇の道は“富士山の樹海コース”

劇作家、演出家として数多くの作品を手がけ、故・中島らもさん、松尾貴史さんらと設立した劇団の流れを汲む「リリパットアーミーII」の座長を務めるわかぎゑふさん。生まれ育った大阪を拠点に演劇界で幅広く活躍し、歌舞伎や狂言など日本の伝統芸能とも積極的に関わってきた。「芸術や文化で人を楽しませること。今を生きる人間にとって、それは時に、その日の食べ物よりも必要な瞬間がある。そのことを知ったから、芝居を辞めずに続けてきた。私の根源です」。わかぎゑふさんの演劇にかける情熱に迫る、単独特別インタビューを連載で紹介する。(6回連載の2回目)
【前回の記事→劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.1 スポーツ少女が漫画研究会に転身、偶然の出会いから「演劇」の道に】

──相愛中学の3年生のときに、大学生の先輩・若木元子(現:稲葉元子)さんに誘われ、演劇と出会ったわかぎさん。初めての舞台はどうでしたか?

演劇はそれまで全くやったことがなかったし、私には、芝居をやるというイメージがわかなかった。でも、宝塚歌劇みたいに、男の子を演じている先輩たちがいて、彼女たちは、黒いスーツにリボンタイで学園モノの芝居をやっていたんです。これはすごく親近感があった。ある時「役者が足りないから」と若木元子(現:稲葉元子)さんに頼まれて、自分も同じような衣装を着せられて芝居に出たんです。思えば、これが私の最初の舞台でした。その若木さんたちの集まりが、すぐ後から『エイプリルハウス』という名前で劇団として活動するようになったんです。これが「お茶会しながら、お芝居しましょう」というようなおもしろい劇団だった。女子大生の集まりに、高校生の私が一人で混じっているという感じで参加していました。
『エイプリルハウス』は漫画を原作にした芝居をやっていました。私はもともと行動するのが大好きな性分でもあったから、当時の自分には、「漫画と行動力が一緒になって、実践的に何かをする」ということが「演劇」だったのだと思います。漫画という平面の表現が、芝居という身体的な表現で立ち上がるイメージが楽しくて、どんどん演劇にのめり込みました。

私が高校1年生の時、いきなり若木さんが、「『わかぎ一族』を作ろう」と思い付きで言い出しました。みんなの名字が「わかぎ」になるんです。私の本名が芙紀子だから、「芙紀子ちゃんは頭文字がF(エフ)やから、名前は『わかぎえふ』な!」と言われて、「はあ…」と答えました。それで『わかぎえふ』が誕生しました。それ以来、私の芸名はずっと『わかぎえふ』のままです。
私は、大学派閥でもなければ学生演劇派閥でもない。『わかぎえふ』になってから、「芝居って、おもしろいなぁ」と思うようになってきました。若木元子さんの影響が大きいですね。

エイプリルハウス時代の「罪と罰」

──『エイプリルハウス』での活動は、その後も続けられたんですか?

17歳の時に父親が亡くなって、高校卒業後は、デザインの学校に進みました。『エイプリルハウス』の活動は続けていたんですが、当時親しかった年上の友人が「絵の勉強のために、東京に行く」と言い出したんです。さらに、中学の時に一緒に漫研を作った親友は、服飾デザイナー志望だったんですが「この世界、文化服装学院を出てないとあかんねん」と、上京することに決めたと言い出しました。
周囲の親しい子たちが次々と自分の夢に賭けて、東京へ行くためにお金を貯め始めたのを見て、私も少しずつ「東京、行ってみようかな」と考えるようになりました。

考えてみると、芝居が好きだったけれど、きちんと勉強したことはありませんでした。水泳や剣道なら、理路整然と人から説明されて身につけてきたけれど、芝居はほんまに勘でやっていたんです。「芝居だって、教えてくれる人がいるんとちゃうかな」と考えたら、「芝居の学校に行こう!」と思い立ちました。
ちょうどその頃、東京から指導に来る先生にダンスを習っていました。その先生は、私のために演劇雑誌の「テアトロ」を買ってきてくれたんです。それで、雑誌に載っていたいくつかの劇団に試験を受けに行って、合格した中から『ザ・スーパー・カムパニイ』という劇団の研究生になりました。ちょうど20歳の時のことです。

──大阪から東京に上京されて、本格的に演劇の道を歩み出されたのですね。

『ザ・スーパー・カムパニイ』では、ジャック・ルコックという人が考案したパントマイム「ルコック・システム」を学びました。2年間在籍した後、自分の劇団を立ち上げました。
大阪でデザインの学校に通っていた時も、授業中に漫画のネームやオリジナルの小説を書いていたくらいで、もともと自分でストーリーを考えるのが好きだったんです。思えば『エイプリルハウス』時代も、座長に「ふっこちゃんも書いて」と言われて、途中からは私が、漫画を基に脚本を書いていましたね。

劇団名は『海猫亭』。22歳か23歳くらいの時です。公演場所は、当時行きつけだったビルの地下のバー。スタジオみたいな小さな設備を持っていて、その店のマスターが「ここ使っていいよ」と言ってくれたんです。バーの店名が『海猫亭』だったんで、「それなら劇団も同じ名前にしよう。看板も出てるから分かりやすいやん」と思って、同じ名前にしました。
私は就職してデザイナーとしても働いていて、仕事をしながら年1回のペースで『海猫亭』の公演をしていました。そもそも、当時はプロになるつもりなんて1ミリもなかったんですよ。東京に行って『ザ・スーパー・カムパニイ』の最初の稽古に行った時に、「プロになるのは一生無理やな」と思いました。集まっている子たちはみんな可愛いし、踊れるし…。「自分には役者は無理だ」と思い、そこから、「どうやったらこの世界で生き残れるやろう」と考えるようになったんです。

23歳ごろのわかぎさん

私が20代だった頃は、先輩たちから「俳優は絶対にスタッフになっちゃダメ。結局役者になれず、スタッフで終わってしまうから」と言われる時代でした。当時は絶対的に役者が一番偉くて、役者の上にいるのは演出家だけ。脚本は役者のために当てて書いてもらうものだから、劇作家も役者より下。照明などのスタッフは役者崩れの人がやっていることが多かったので「あの人は役者で売れなかったから、照明なんかやってるんだよ」と裏で言われるような雰囲気でした。
でも私の考え方は違いました。「オリンピックの体操競技に例えるなら、種目別では金メダルを獲れないけれど、総合では、私は表彰台の3位にいる選手。狙うのはこれや」と思っていました。だから、最初から役者1本で行くのは諦めて「衣装、縫えます。絵、描けます。本、書けます」と、“総合の表彰台”を狙いに行ったんです。そういう考え方をしている人なんて一人もいなかったから、周囲からは相当「お前、変わってるけど大丈夫?」と心配されていましたね。

──演劇に携わって生きて行こうとする時に、垣根を取り払えば、貪欲に進んで行けるのですね。

要は「演劇が“富士山”だったとして、どっからかは登れるんとちゃうか」という考え方やったんです。先輩や周囲の人たちからは「みんなは絶対、この“役者”のコースからしか登らない。でも落ちる人は、こっちから下山して“スタッフ”という樹海へ行ったのよ」みたいな話を散々聞かされました。それでも、「樹海からでも頂上まで登れるんとちゃうやろか?」と私は思ったんです。多分、他にそんな人はいないから、その空いている道から登った方がいいと思えたんですよ。(続く


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