
劇作家わかぎゑふ、演劇人生を語る vol.1 スポーツ少女が漫画研究会に転身、偶然の出会いから「演劇」の道に
劇作家、演出家として数多くの作品を手がけ、故・中島らもさん、松尾貴史さんらと設立した劇団の流れを汲む「リリパットアーミーII」の座長を務めるわかぎゑふさん。生まれ育った大阪を拠点に演劇界で幅広く活躍し、歌舞伎や狂言など日本の伝統芸能とも積極的に関わってきた。「芸術や文化で人を楽しませること。今を生きる人間にとって、それは時に、その日の食べ物よりも必要な瞬間がある。そのことを知ったから、芝居を辞めずに続けてきた。私の根源です」。わかぎゑふさんの演劇にかける情熱に迫る、単独特別インタビューを連載で紹介する。
(6回連載の1回目)
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──わかぎさんは劇団リリパットアーミーIIの座長として、また、今年20周年を迎えられた玉造小劇店の主宰として、長年演劇界でご活躍されています。大阪という独特の文化がある街で生まれ育ち、10代の多感な時期を過ごされました。どんな少女時代でしたか?
私は1959年の生まれで、実家は当時、大阪市西区の九条にありました。父親は船乗りで、家にはほとんどいなかったんですよ。父が56歳の時に私が生まれたんですが、それまでに何回も結婚を繰り返していて、あっちこっちに兄弟が居ました。父は、私に「10番目の子どもや」と言っていましたが、兄たちはみんな戦前の生まれ。戦争で亡くなったり、戦争から帰って来たものの体調を崩し若くして亡くなったり。兄弟の中でも特に私と仲が良かった一番下のお兄ちゃんは昭和5(1930)年の生まれで、もう90歳を過ぎていますが存命です。
魅力的というか、ある種の人たらしだった父親とは反対に、母は武家の血を引いているとんでもなく真面目で堅い人でした。17歳で父と結婚して、20年後の37歳の時に私を産んだんです。私が生まれてしばらくしてから父もようやく船を降りて、3歳の時に夫婦一緒に暮らし始めました。だから、兄弟は多いんですけど、父親と一緒に暮らした経験があるのは私だけなんです。

小さい頃は水泳と剣道を習っていて、将来はオリンピック選手になりたいと思っていました。強豪だった淀川スイミングスクールという水泳教室で、オリンピックを目指す強化選手のクラスで習っていたんです。日本の水泳の第一人者だった古橋廣之進先生から直接指導を受ける機会もあったりして、オリンピック出場はそんなに遠い目標だと思っていなかったです。ただ、中学校に上がる頃、父に「スポーツ選手になりたかったら、大学からにしてくれる?」と言われ、女子校の入学案内パンフレットをいっぱい渡されたんですね。「もう少し女の子らしいことをしないと、生きていけないよ」と言われ、父の勧めに従う形で相愛女子中学・高校に通うことになりました。

──オリンピックを目指して水泳に打ち込んでいたスポーツ少女のわかぎさんにとって、由緒ある女子校に進学することに戸惑いはありませんでしたか?
小学生の頃は、剣道のために頭を刈り上げにして、毎日のように男子と喧嘩しているような女の子でしたからね。明治から続く伝統あるお嬢さん学校に行かされて、やることがなくなるじゃないですか(笑)。それで、「そういえば野球やりたかったなあ」と思って、とりあえずソフトボール部に入りました。
中高で一緒に活動していたんですが、チームは弱いし、まともに練習しないし。オリンピック選手を目指すくらいにスポーツに励んでいた私にしてみたら、「この学校でスポーツは無理やな」と思って、2カ月でソフトボール部を辞めました。
学校ですることがなくなったなと思っていたら、同じクラスに居た絵を描くのが好きな友人に「描いてみる?」と声をかけられたんですよ。試しに描いてみたら、その子よりも私の方が上手に描けた。そこから「これはおもろいな」と思って、絵や漫画を描くことにハマった。それまで毎日スポーツしていた時間を全部漫画に充てて、一日8時間ぐらい描いていました。
中学3年の時には、漫画研究会(漫研)を作って、他の中学と交流会を企画しました。電話帳で調べて他の中学に「そちらには漫画研究会はあるでしょうか」と電話で問い合わせて、10校ぐらい漫研を集めて、自分たちの描いたイラストを交換したりしてました。そのうち、出版社に自作の漫画を持ち込んだりもするようになって、編集者とも顔見知りになって。「夏休みだけ手伝いにおいで」と誘われ、中学3年から高校2年くらいまで、プロの漫画家の先生のアシスタントのお手伝いもしていました。

──ソフトボールから漫画に転向したことが、わかぎさんにとって文化的なものと出会うきっかけになったんですね。
そうですね。相愛は中学と高校、大学まである学校なんですが、大学生が教育実習で中学に来て授業をするんです。それで、中学3年の時に教育実習に来ていた大学生に「文化祭でお菓子を売るから、買いに来てね」と言われて、漫研の親友と一緒に遊びに行ったんですよ。お菓子の出店に手作りの栞(しおり)が売っていて、そこに描かれている絵に見覚えがあった。「この絵、先月のリボンで佳作に入っていた人の作品じゃないですか?」と聞いたら、「それ描いたの、私です」と言う人がいた。それが、私の演劇の師匠となる若木元子(現:稲葉元子)さんとの初めての出会いでした。
若木さんは、漫画も描いてお芝居もしていました。若木さんに「今度、『少女漫画フェスティバル』という企画で、萩尾望都先生の『小鳥の巣』という漫画をテーマに芝居をやることになったんやけど、手伝ってくれへん?」と頼まれたんです。私はもう根っからの体育会系なので、先輩の頼みとあれば「おっし、行きます!」と即答しました。
最初は「舞台の書き割りの絵を描くのを手伝って」と言われて、せっせと絵を描いていたんです。そしたら次は「役者が足りひんから、これ読んで」といきなり台本を渡されて。本当に突然だったので「え、私ですか?」と驚いたものの、そのまま台本を読んで芝居に出演しました。
『小鳥の巣』はドイツの学校を舞台にした学園モノのファンタジー漫画で、その中で登場するテオという委員長の役でした。登場人物はみんな美少年なんだけど、テオだけはメガネをかけてガリガリに痩せた男の子という設定。後で周囲に聞いたら、「みんな美少年の役がやりたくて、誰もテオ役をやりたくなかったんや」と言われました。それが、私が人生で初めてもらった芝居の役でした。(続く)
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